井上良斎

立浪うず紋花瓶 共箱

サイズ:高23.3cm

\280.000

 

 

 


          三代・井上良斎の「立浪う津紋花瓶」です。
           箱の裏には「第拾回農展」とあります。

           作品には目立ちませんが、小さなホツが多少あります。
           箱は共箱ですが、写真のように傷んでおります。


     *農展

      明治40年(1907)、日本で初めて国が主催する展覧会である文部省美術展覧会(通称、文展といいます。)が開催されました。
      しかし、この展覧会には、日本画・洋画・彫刻の出品だけが認められ、金工をはじめとする工芸の作品は出品できませんでした。

      展覧会に出品できない人たちは、それぞれ独自の展覧会を開きました。

      しかし、工芸の作家は、やはり国が主催する展覧会に出品したいと思いました。このような工芸家の不満を解消するため、国は農商務省
      (今の農林水産省と通産省の仕事をする役所)の主催で工芸だけを対象とした展覧会をすることにしました。これは、「農商務省主催図案
      及応用作品展
」という長い名前の展覧会でした(たいへん長い名前なので、省略して「農展」と呼ばれています)。
      しかし、この展覧会は、工芸を美術として考えていたのではなく、外国へ輸出するための産業品のひとつと考え、外国に好まれるデザインの
      改良をめざして開催されたものでした。ですから美術の展覧会というよりは、産業博覧会のようなものと言えると思います。

      このころの工芸品に対する考え方は、前にも書いたように日常の生活で使用するために作られていると考えられていました。
      絵画や彫刻のような美術品とは区別されていました。ですから工芸品は、あまりたいせつにされることはありませんでした。
      日本の工芸品は、さかんに外国へ輸出されました。農展は、輸出される工芸品の向上を目的として開催されたものでした。
      日本の工芸品は、外国ではたいへん好まれていました。特にヨーロッパの国々では、東洋のめずらしい文様や形をしている日本の工芸品は、
      日用品として使用されることはなく、部屋に飾って美術品として鑑賞されました。
      明治の終わりごろになると、このようなヨーロッパでの日本の工芸品に対する考え方が、日本でも知られるようになります。また日本の工芸品
      をまねたヨーロッパの作品も輸入されるようになりました。日本の工芸家たちのなかには、自分たちも美術品を作っているのだと考えるようにな
      り、美術家として認めてもらいたいという希望が生まれるようになります。

      農展は大正14年に農商務省から商工省が独立し、展覧会の主催が商工省となったため「商工展」と呼ばれます。

     *三代・井上良斎  いのうえ りょうさい
      明治21年(1888)〜昭和46年(1971)
      東京に生まれる。本名良太郎。板谷波山・宮永香山に師事。
      明治38年父二代・井上良斎の死で陶業を継ぐ。
      大正3年横浜へ移窯。フランス・パリ万国博覧会等へ出品。
      昭和3年帝展初出品、初入選。以後同展・文展・日展で活躍。
      昭和41年日本芸術院会員。
      昭和42年社団法人現代工芸美術家協会理事、副会長。勲三等瑞宝章受賞。

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